「やって後悔とやらない後悔
するならどちらがいい?」
という問いかけに対して、
「どうせするならやって後悔だ。」
という人もいるけれど、
本当にそうなのでしょうか?
僕はどっちも同じだと思います。
やって後悔する人は、
「やらなければよかった」
と後悔するわけです
やらずに後悔する人は、
「やればよかった」
と思うわけです。
後悔には特に意味はなくて
後悔をしたその後に
反省することに意味があるのです。
やった後悔/やらぬ後悔 どちらも大差なしと言える理由
後悔は現実逃避にすぎないから
後悔という行為は
自分の失敗に対して
「こうすればきっとうまくいっていた」
という持論を元に現実逃避する行動のことをいいます。
その持論は、
現実世界で2度と検証されることはありません。
ですから、まちがっていると否定されることはなく
“この選択をしていればきっとうまくいっていた”
そういう自分のありもしない未来を
ずっと掲げ続けることができます。
そうすることで、
痛い部分から目を晒すことができます。
以上を踏まえると
後悔という行為は
現実の失敗から目を背ける行為だと言えます。
反省することに意味があるから
後悔は現実逃避に等しいので
後悔をどれだけしても前進しません。
大事なのは
理想と現実の結末を比較することです
そして、なぜ自分が後悔するような選択を選んでしまったのか
また、どうしてそちらの道を選べなかったのか
これらについて省みることが重要なのです。
後悔した話
やらずに後悔した話
中3で駅伝を走った時のことを未だに後悔しています。
中2の頃は僕の方が早かった友達が別のチームで出ていました。
お互いに1区でスタートしたのですが、
その子が明らかにオーバーペースで走り出したので
僕はそれについていきませんでした
結果僕は区間9着で彼は2着で戻ってきました。
ペースを守ろうとした守りの姿勢を
後悔しました。
あの時彼について行ったら、
今までで一番熱いレースができて、
価値観とかその後の部活選択とか
いろんなものに影響を与えていたのではないか。
そんなことさえ考えます。
これはただの実現しない未来を想像しているだけです。
やらない後悔の悪いところは、
起きるかどうかもわからない未来が、
さも当たり前に起こると確信したようにして話を捏造し、
そこに耽ってしまうことにあると思います。
この類の後悔の場合は、
なぜあの時に自分はついて行くという選択をしなかったのか。
なぜペースを守る選択をしたにも関わらず、
結果として思ったような走りができなかったのか。
そこに立ち返る必要があるのです。
事実に対して次はこうなりたいから、
こうやって行動しよう。
そんなふうに反省して
それを教訓として血肉にできれば
価値のある後悔だったと言えるのです。
やって後悔した話
講演会のたびに、
手をあげて発言することを目標に掲げています。
せっかくその場にいるのであれば、
直接自分の聞きたいことを聞かないと
いる意味がないと思っているからです。
ただし、
先日無理やり質問をこじつけた形になって
恥ずかしい思いをした経験がありました。
やらなきゃ良かったなって思いました。
実際のところ
“聞きたいこと聞けずに終わって後悔する自分”
と
“体裁にだけこだわり結果として恥ずかしい思いをして
やらなければよかったと後悔する自分”
別にどっちも大差ないのです
この場合は、
聞きたいことが湧いて出るほど
興味を持って聴けなかった
その事実に反省をするべきです。
「次はもう少し自分ごととして聴けるようにしよう。」
そうやって
次の行動への意識付けをしてこそ
価値ある後悔だったと言えるのです。
最後に
『やって後悔する方がいい』
その真意は、
どちらの失敗も両方とも後悔が付き纏うものだが、
やらない後悔はその後の結果が見えない分タチが悪く、
もやもやしたり、
ありもしない理想的な未来に縋ってしまったりします。
やって後悔したものには、
恥ずかしさとかそういうものが残るが、
やらずにモヤモヤするよりは随分いいのだ。
そういう主張だと思います。
つまり、
やって後悔しておくというのは
自分の気持ちを健全に保つための助言であって
その場しのぎの心の応急処置に過ぎないということです
清々しく終わりたいだけのアドバイスなのです。
ですから、
次に活かすという意味では
後悔すること自体には意味はなくて
それを踏まえて自分が次にどう動くのか
そんな反省をすることに意味があるのです。
後悔して立ち止まるのではなくて
次に活かせるように反省できるように
心がけていきたいです
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