あなたは自粛という言葉に慣れていませんか。
“やめる”という行動に対しての悔しさを
忘れていませんか。
人に止めろと進言することへの
抵抗感を忘れてしまっていませんか。
人の当たり前を奪うことが
当たり前になってしまった
そんなご時世に対して違和感を感じませんか。
失うことに慣れてしまっていないか
自粛に慣れてしまっていないか
飲食店は休業するべきだ。
これは、
1年の経験値からはじき出された
一番最善の策であると言われています
ほとんどの感染が、
面直での会話が元だと言われているからです。
別にこれ自体はまっとうなのですが、
外に出ることすら悪だ。
とする空気が蔓延していることに危機感を感じます。
何か行動を起こすことが悪になり
何かを続行させようとすることも悪になり
何をするに批判される世論が形成されています。
自粛にするという行為の一つ一つが
誰かの苦渋の選択によってなされていることに
気づけていますか?
『自粛して当たり前だ。』
そうじゃないと思います。
要請に協力しているわけだし
善意での行動であるわけです。
第三者もそういう配慮を忘れないようにしたいです。
中止に慣れてしまっていないか
『もう中止でいいじゃないか』
という言葉が持つ恐ろしさを
今一度認識した方が良いのではないかとか思いました。
自粛という行動=中止ではないのです
それなのに多くの人は
『もうやめたら?』
と言います。
自分のかつて好きだったことができなくなって
もう一年になります
自分のかつての日常を失った瞬間の苦しみを
忘れている人が多いのではないでしょうか
かつて、苦い思いをしながら
決断した行動を、
今や平然と取れてしまう事実に違和感を感じませんか?
慣れてきたし、
わかってきたからこそ、
次の行動はもっと前向きである必要があると思いませんか?
奪うことに慣れていないか
“自ら粛む(つつしむ)”
と書いて”自粛”です
全ては、
当事者の意思でなされるべきです。
その一方で、
多くの人が、
やめろやめろと声を上げている実態があります。
別に間違っていることではないです。
冷静に外から見れば
控えるべき事柄というのは多いですから
ただ、
「もう止めれば」
という言葉の重みがどんどん軽くなっていることに
非常に大きな違和感を感じます。
多くの人の努力をくじくことに慣れ
多くの人が挑戦することをやめる空気が
出来上がってきてしまっていないか
そんな不安を感じているのです。
一番恐ろしいのは
この空気が当たり前になって
できないことはやめてしまえ
と考えることを放棄してしまうのではないか
ということです。
自粛を求める声は
正論ですから
それ自体が間違っているなんて言えるはずがありません
むしろこんなことを主張する僕自身がマイノリティで
批判される対象であるのかもしれません。
ですが、
僕としてはこの空気が
なんとも気持ち悪く
このままではダメだろ。
そんな風に思うのです。
オリンピックに際して
2021年は、
自分で道を切り開いていくしかない年になるだろう
そんな風に、思っています
オリンピックに関しても、
関係者が知恵を絞りながら
何らかの形で開催できるように
善処していくのであろうと思っていました。
しかし、
体操の内村選手の一言を引用した小池都知事の
言葉に対してのコメントが思った以上に冷たく
国民がかなり冷え切ってきしまっている
という印象を受けました。
→参考はこちら
僕個人としては、
日本を代表するスポーツ選手の代表として
内村選手が各アスリートの気持ちを
かなり柔らかい表現で
でも真意が誤解されないように
まっすぐ発せられた言葉だなと感じています。
おそらく小池都知事もそう捉えていたのでは
ないかと思うのです
全てを自粛自粛で済ませようとする流れに対して、
まずは気持ちの面から待ったをかけよう
そんな意思表示の会見だったのではないかと感じました。
最後に
この自粛の空気の中で
何かをどうしてもやりたかった頃の
気持ちは沈められ
毎日やりたかったほど好きだったことが
もはや何が好きだったか
何が普通だったのかさえ思い出せないほどに
当たり前が変わってしまっている現実があります。
「危ないからやめておきなさい」
と頭ごなしに親から言われ
それに反発した頃のエネルギーは
もはや日本のどこを探してもない気がします。
本当にそれでいいのでしょうか?
あなたが好きだったものが
根こそぎ無くなってしまっていいのでしょうか
そんなはずはないです。
考えれば1つや2つは方法があって
本当はやれるはずなんです。
すべての可能性を消しかねないこの空気が
少しでも緩和されることを願ってやみません。
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