【1Q84】”生”について考える

本と生きる




1Q84 BOOK2を読み終え
どのように物語が収束していくのか
気になっているところです。

上巻で気になっていた部分の
アンサーを用意しつつも
下巻に向けて数多くの宿題や
疑問点を残しながら描き進められていきます

不思議な世界観で
ファンタジーの中に誘われた感覚が強かった
BOOK1に対して

BOOK2では
現実ではありえない話にもかかわらず
そこにいる登場人物の”生”の描写が生々しさから
強い生命力を感じられます。

BOOK2から感じたことを
書き残します

“生きる”ことについて考える

年をとることは失うこと

ある年齢を過ぎると
人生というのはものを失っていく
連続的な過程に過ぎなくなってしまう

これは多くの人が
どこか潜在的なところで感じながらも
目を背けている事実だと思います。

目を背けるというか
向き合うのを避けるというか
わざわざ向き合っても仕方がないものというか

そういう類のものだと思います

たくさんの人に出会い
ものや経験を得ていくということは
いつかその全てと
お別れをする時が来る
ということです

年を重ねると
失うペースが獲得するペースを上回ります。

そして、いつか
「今年もまた1つ失った」
そんな毎日を送ることになりるのです

“失うための過程”
という表現は何とも残酷な表現ですが
人生の真理でもあります。

その上で、どう生きるか。

考えさせられます。

意味づけのために生きているという事

「もう一度会いたいとかそういうんじゃない。
別に会いたくなんかないさ。
今更あっても話す事なんてないしな。

ただね、そいつが脇目も振らずに
ネズミを木の塊の中から
『取り出している』光景は、
俺の頭の中にまだとても鮮やかに
頭の中に残っていて、
それは俺にとっての大事な風景の一つになっている。

それは俺に何かを教えてくれる。

あるいは何かを教えようとしてくれる。

人が生きいくためにはそういうものが必要なんだ。
言葉ではうまく説明は付かないが意味を持つ風景。
俺たちはその何かにうまく説明をつけるために
生きているという節がある。

俺はそう考える」

物語の中の一節です。

暇なときに思い出してしまう
昔の何気ない一幕。
そんなものが誰にでもあると思うのですが、

そういう忘れられない一幕に
意味を見出すことが人生なのでは?
と言っているのです。

 

そうかもしれないなー
と僕は思いました。

僕の場合は
“なぜか覚えている”
というような意味不明な記憶は
ありません。

しかしその代わりに
とにかく失敗したり
恥ずかしい思いをしたり
後悔した思い出が多いです

つまり僕は
後悔や失敗が色濃く刻まれやすい体質で
その嫌な思い出と向き合いながら
毎日臥薪嘗胆、日々努めていくのが
自分らしい人生なのだ。
そう言えるのかな?
なんて考えます。

あなたが白昼ふけてしまうような
ある光景があるのであれば
それが何を自分に対して暗示しているのか
考えてみるのも一つ面白いのではないか
と思いました。

最後に

多くの小説では、
ある人物の
限られた時間の
限られた人間関係のみが描写されます

1Q84はメインの登場人物二人がいて
その二人を軸にして物語が進みます。

BOOK1からBOOK3まで合わせて
1500ページを超える長編ですから
二人を語るには十分すぎ文量がありますから
十分に二人の人となりを理解できると思います。

それを踏まえて
節々に散りばめられている
真理を突くような言葉に触れると
より強く二人に感情移入できるので
物語の世界観に十分浸かることができます。

時間をかけてじっくり読みたい小説です。

ぜひご一読を

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