何かに失敗した時
責任感にかられていた場合は
申し訳なさを感じます
一方で
使命感に駆られていた場合は
悔しさを感じます。
逆もまた然りで
申し訳なさから
始まるものには
責任感が宿り
悔しさを感じたものには
使命感を持って
取り組めます
与えられた役目に
どのような感情を抱けるかで
パフォーマンスも
やりがいも変わってきます
どうせなら
使命感を持ちたいものですが
使命感という
チートさながらの
モチベーションは
勝手に湧いて出てくる
ものではありません
ですから、
まずは使命感を持って
本気で取り組めそうなものを
探すところから始めたいです。
使命感という洗脳的観念
冒頭でも述べたように
使命感は一種の
麻薬のようなものです
それに取り組んでいるうちは
無敵になれますし
それに取り組むために
無意識のうちに
時間や体力を調整
させることもできます。
言ってしまえば
無我夢中になれる
ということで、
盲目的だということです。
そのためなら、
何も厭わない。
「これこそが生きる使命だ」
と言える状態ですから。
とはいえ
盲目的で、洗脳的だから
危険だと否定するわけではなくて
むしろ僕は肯定的に捉えています。
なぜなら
人間のパフォーマンスは
モチベーションに左右されるからです。
夢中になれるから
夏の暑さや冬の寒さ
朝の気だるさ
人間関係のこじれ
等々
どんな蟠りでさえ
無視できてしまうわけです。
逆に夢中になれないから
そういった煩わしさに
心揺さぶられて
不幸を感じるわけです。
言い換えれば、
夢中になって
自分の労力を
つぎ込むことができる
存在があることっていうのは
大変幸せなことだと
言えると思います。
悔しさを感じられていますか
悔しさって感情は
実は尊いものだった
ということに気づきました。
勝負事に身をおくことって
普通に生きていたら
そんなにないものなんだなと
気づきました。
使命感の始まりには
一種の悔しさが
必ず存在しています
物足りなさからくる
現状に対する悔しさや
もしくは
何かをやりとげられなかった
不甲斐なさからくる
悔しさなどです。
そういったきっかけは
一人で生きていても
あまり遭遇することがなく
多くの人は
自分の人生よりも
大事な何かに
出会えて初めて
本気になれるような
気がしています
つまり
悔しさという感情は
当たり前に転がっていそうで
実はそこまで身近にいるわけではない
特別な感情だと言えると思います。
最後に
何かを応援していて、
その勝敗が
望んでいるものとは
異なる結果だった時
人は悔しさを感じます
そんな経験は
十分にあると思う一方で
現状に満足できず
悔しさを感じられる人って
どれほどいるのでしょうか。
応援する対象が
いるということは
自分とは別の何かに
依存していると言えるわけで
自分だけにベクトルを向けて
現状に悔しさを覚えるほどに
本気で日常を生きるというのは
常人ではできないことだと
言えるかもしれません。
涙を流すほどに悔しさを
感じられていた日々っていうのが
どれほど貴重だったのか
そして、
使命感を感じられるものと
出会うということが
どれほど難しくて
ありがたいことだったのか
そんなことを
痛感させたれます。
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