天才の定義について考えました。
一般的に
“なんでも人以上にやれてしまう人”
“一つに突出している人”
この2種類の人を天才と表現するのではないでしょうか
前者は
たまに出会う
頭も良くてスポーツもできる
芸術センスがある優しいイケメン
みたいな誰もが羨む人
後者は
メデイアに露出する
スポーツや芸術に突出している人
です。
辞書では天才を
産まれながら持っている
秀でた才能を持っている人
と言います。
おそらく間違いないのですが
「必ずしも生まれなである必要はあるのだろうか」
そんなことを考えて
少し疑問符が浮かぶのです。
一方、
“才能”は
ある個人の素質や訓練によって発揮される
物事を成し遂げる力
と定義されています。
ここでは
“素質”
すなわち
“産まれながらのセンス”と
“訓練によって発揮される力”が
並列で書かれているのですが
天才の定義に立ち返ると
もともと素質のある人だけを
“天賦の才”
略して、天才と呼んでいることに気づきます。
それと比較して
訓練によって発揮された能力を持つ人を
“努力の天才”
と表現する場合もあります。
しかし、
“持たざる者”から見れば
どちらも同様に天才に見えるわけです。
ここで
“持たざる者”
というワードが出てきました
“辞書通りの天才”と
“努力の天才”が持っていて
“持たざる者”が”持っていないもの”がある
ということです
それは何なのでしょうか。
持たざるものが持っていないものとは
それは才能
当たり前ですが、
まず1つ挙げられるのは
“才能”です。
音楽の才能がない人は
次々に曲を世に出すような人を
天才だと思います。
スポーツの才能がない人は
世界で活躍するスポーツ選手を
天才だと認識します。
才能を持たざる人は
才能がある人を天才だと思うのです。
それは環境
仮に才能があったとして
それを発揮できる環境にいなければ
それを発揮することができません
本当はやれる環境にあるのに
世間体を気にして踏み出せなかった人も
大局的に見て環境不足だったと言えます
それは使命感
環境に恵まれず、
特に得意であるわけでもないとしても
“好きだから”という理由で夢中になり
いつしか誰にも届かない領域に到達する人がいます
そんな人は
“持たざる人”同然だったのにも関わらず
自分の”好きだ”という
これを”やりたい”という
自分を突き動かす使命感だけを
持っていたと言えます。
どんなしがらみも置いていけるほどの
使命感を持ってさえいれば
天才にさえなれてしまうのです
逆に言えば
些細な障害に方向転換を余儀なくされる
そんな使命感しかなければ
何かを成し遂げ自分の場所を築き
周りから天才だと呼ばれるようなことなど
ありえなくて当然なのです。
結局、天才とは何か?
天才という言葉の意味は
辞書が示すとおり、
“天賦の才”のことです
ですが、
人が“天才”と言う場合には
それ以外の意味で使われます
上述したとおり
才能がない人から見た才能がある人は
総じて天才と呼ばれる可能性があります。
その場合、
天才という言葉には
努力や訓練のプロセスの意味が
欠落しています。
“生まれながらだ”
と決めつけたい意思が
そこには見え隠れします。
そう考えると
人が”天才”という言葉を
人に向かって使うとき
自分が届かなかった場所にいる相手に対する
“ひがみ”の念が込められていると言っても
言い過ぎではないのです。
つまり、
言葉が持つ本来の意味以上に
発話者の内面がにじみ出るので
相手の才能を賞賛するというよりも
自分を蔑む言葉だとも言えるのです。
最後に
大学時代には
確かに使命感を抱えて
よさこいに打ち込む時間がありました。
ただその使命感は
賞味期限付きでした。
考えることはたくさんありましたが
次のステージに進むために
自ら手放したものでした。
→やめた時の話
あれ以来
使命感には出会えずにいます。
僕自身を天才に導く
使命感はどこにあるのでしょうか。
そんなことを考えてしまいます。
一方で、
世界は進歩しており
自分の才能を発揮しやすい環境が
SNSの普及に伴い整っていき
数多くの天才がチャンスを掴んでいます。
日の目を浴びていなかった天才が
たくさんいたことがわかりました。
もう環境を言い訳にする時代は
終わりを迎えたと言えます。
活躍している若い世代を
“天才ばっかりだ”
そんな言葉で片付けていてはダメだ
そう思いました。
まずは命を燃やせるような
使命感を感じられるものに
出会う必要があります。
そのためにも
自分の本能を信じて
生きてみる必要がありそうです。
天才とか才能がないとか
そんな言葉で言いくるめない人生を
送りたいと思いました。
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